2013年11月22日

ダークサイドの教育

もしも自分が動物だったらどのような子育てをするだろうか・・・

人間の場合真っ先に教養を教えようとするが、動物だったら一番に危険の回避の仕方を教えるかもしれない。

動物によっては油断すれば、自分たちは何かのエサになってしまい、自然界では殆どの動物に天敵がいて、幼少の頃は全てのものが危険な状態にある。

自分達に迫る危険度が高いので、とても警戒心が強い。

人間は動物達とは違い、自分達は社会の中で人権と安全は保障されているように思い込んでいるが・・・

子ども達は学校でも善良な言動が求められ、一見平安と安全しか感じない状態におかれ、本心は問われることなく善良なる姿勢と思想が高評価されている。

しかし現在は幼少の頃からインターネットのお陰で、あらゆる情報が手に入り年齢制限をすることは不可能な状態となっている。

それでも人間社会は子ども達に善であることを求め、教育の場では現実的なダークサイドにふれようとはしない。

しかし犯罪の手口や犯罪者になってしまう者の社会的身分も複雑になり、数の多さと巧妙さは事実上野放し状態になっている。

人間社会も現実的にはジャンルと同じ位危険度は高くなってきてはいるが、実際には狙われたら守るのは自分しかいない・・・

動物だったらジャングルでは、お互いに良心無き獲物を狙うだけの敵に狙われ、警戒心なきものからやられる。

犯罪を犯す人間はただ動物より手口が巧妙なだけかもしれい。
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2013年06月14日

いじめと言う言葉

人間社会で生きていく以上、"いじめ"と称される行為から完全に無縁になる事は出来ないのかもしれない・・・が。

比較的成人であれば、"いじめ"からどうしても逃れたければ、手段はある。しかし、子供の場合、事実上の自己選択行動が自由に取れないために、戦いに疲れ果てて逃げたくなったら、どうしたらいいのか。

学校でいじめられる側になった時、"いじめ"から完全に逃れる事が出来る様な、子供が考えられる逃げ場はあるのか。

そして逃げた者は弱い人間だったからなのだろうか。

困難な物事から逃げた者は弱い人間で、それぐらいの事が我慢出来なければ、どうせ厳しい大人社会では生き抜いてはいけないという潜在的思い込みが、大人側には多少は存在している。スポコンのしごき根性の如くに、いじめている側の奴らにも。しいては、いじめられている本人にさえも。

だから、いじめにあっていても、我慢するものと思われ、我慢をしいられている。また,我慢できるものだと。

しかしそれはまだ、心が健康で強さと考える事が可能な状態の人間の考えだとも言える。

厄介なのが、いじめを受け続ける事によって起こる心身の被害は、肉体に比べ、精神の状態が傷付いていたり消耗していたり、医師の力が必要な域に達していても、本人も周囲の者も気が付きにくい事だ。

いじめる側の人間も心が病んでいると、弁護的思想も蔓延ってはいるが、病んではいても、人をいじめる元気は残っている。かえって、人をいじめる事によって、自己の不満や苦しみを、癒している。だから、回復していく。

いじめられている方は、最初は我慢をする気力があっても、嫌な事をされ続ける疲労から、心身が病み、消耗していく。

長期戦になればなる程、両者の差は開いていくが、後者に逃げ場はない以上、心身の休まる事はない。

自ら好んでいじめをやるような奴は、相手がどれだけ苦しみ辛い精神状態に追い込まれているかなどと理解しようなどとはしない。また、周囲の者達や大人達でさえも、心が気丈夫な状態の者達の共感分析などでは理解出来ないと思われる。

大人だと、傷害はふつう、暴行によって生じるが(典型例としては殴って怪我をさせる場合)、暴行によらない無形力の傷害を考えることも出来、 判例が肯定したものとしては、嫌がらせ電話をかけ続けて精神を衰弱させたケース(東京地判昭和54年8月10日判時943号122頁)がある。(wiki 傷害罪)

"いじめ"と聞いても、"意地悪"程度にしか感じられないが、その"いじめ"と呼んでしまう行為の中には、形態もレベルも受ける時間も様々に複合していて、犯罪性の高いものまで含まれる。

大人は同じ事をされた場合、内容によっては、犯罪として扱われれば対処がなされ、加害者の犯罪行為が止められるが、子供同士だった時は"いじめ"と呼ばれ、教師や保護者などの大人に意を決して訴えても、犯罪行為に達する程のいじめが止む保証も無いどころか、かえって教師や大人達の自己流の対処がなされるだけで、その方法が悪ければ、逃れられるどころか、居場所も知り合いをも失ってしまい、孤立無援になりかねない。

教師や大人の対処を信じる事が出来ない子供達は、助けてもらう方法が分からないし、周囲で助けたいと思っている者達もどうしてあげるべきなのかも分からない。

アメリカの法廷ドラマで検事が、“証人が正直で誠実な事を、弱点にしようとしている“と弁護士に言うシーンがあったが、今は子供社会ですら、そうなっているのが現実だ。

場合によっては、いじめを受けている者の精神力がもつ間に、自力で、逃げ場や警護や、自己の立場保全の確保が出来るとは思えない。

でも、それを救出するのは・・・

法か、システムか。

今は、ただ、運しかない。
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2012年07月20日

子供の世界と言う聖域 V

ライオンがシマウマの親子を襲っているのは、食べるための狩りであって、遊びで楽しんいるわけではなく生きるためである。そこに罪悪感などは無い。

では同じ地球上の生物である「人間」と言うものと「獣」と言うものとの違いはどこか。

一般的に「心」があるかないかというところだろうか・・・

残念なことに人間の形はしているが、そこに正常な心の発達が伴っているのかと言う事は、外見からでは判断できない。

子供達の「情緒」が豊かに発達するには、情報過多やストレスが多い過密社会では、難しいことなのかもしれない。インターネットの普及によって、現代では、性的、暴力的、非人間的な中傷などの内容などを、幼い時から自由自在に手に入れる事が出来るようになってしまい、昔のように年齢に適した情報を与えることが不可能になってきている。

実年齢にそぐわない、非人間的で過度の刺激的な情報は、特に成長期である「子供」の脳の発達に影響を与え、人間を少なからずサディズム=他者を精神的肉体的に虐げ苦痛を与えることによって、満足を得る性的倒錯,嗜虐傾向をいう。的な傾向を強くさせてしまう。

「いじめ」という言い訳をして、いじめる加害者側は、弱い者いじめをすることで、自己の優越感、自分自体の親などからの虐げ、劣等意識などのストレスの解消と言う「満足感」を得ていると考えられる。

だからいじめている側には、「罪悪感」ではなく、「快感」しいては「爽快感」を感じている可能性がある。だから一度始めたら、いじめているやつらはいじめを「止めない」。

だからだんだんエスカレートして、いじめられている側の気持ちや苦しみなどは、きっと微塵も感じていない。

下手をするとたぶん、「気持ちがいい」のだろう。

しかし、行為自体は「犯罪」と言えるものも多い。

「大人」側は、婉曲なる表現で「いじめ」と言い訳をして、黒板のいたずら書き程度の行為から、集団でのリンチ、殺人未遂に抵触する程度の暴行行為をも含む言葉として、この言葉を悪用し、この難解で手間暇のかかる面倒な問題から長年にわたり、逃げ続けてきた。

そのために、苦しみ抜いたいじめられていた被害者側の子供たちに、何の救いの手を差し出すこともなく、辛く、ひどい苦しみを与えつづけ、唯一の救助者の責務を負っている無自覚の無責任教師により多くの救えたはずの尊い命を失わせてきた。

その罪は、実際に手は加えてはいないので自覚すらできていないが、事実上罪は重い。

弱く何の権限もない、同級生の子供たちが、いじめられていることを教師に訴えていたケースも多く、その子供たちは「密告者」として自分にいじめが降りかかるリスクを承知の上で、魂にある高潔な真の正義感と勇気により行動したのだろう。

それに比べ、初心にはあったであろう教育者としての志を忘れ去りし自称教育者たる教師は、自分と対等ではない「こども」たちとの世界で誰からも間違いを正される事もなく「王」として、好き勝手気ままに歳月を重ね、いじめに対する「いい加減な対応」や「非対応」を平然と、何の罪悪感もなく、行うようになる。子供たち以下の責任感しか持ち得ていない者も多い。

遥か昔「師」と言うものが持っていた「誇り」と言うものを、面倒なので捨てた者たち・・・

これからは、「子供」、「大人」の区別なく犯罪行為は、「法」を執行されなければならない。

「犯罪行為」を行っていた場合は、罪刑法定主義という刑罰は法律によって規定され、その法に従うとされている。

戦後、異常なる人権尊重と自由の「権利」ばかりにとらわれ、教育内容も権利に特化しすぎてきた。その為に、日本国憲法における国民の義務、12条人権の保持、人権の濫用の禁止、99条憲法尊重の義務、26条教育を受けさせる義務、27条勤労の義務、30条納税の義務などの自由に比べて面倒な「義務」はなおざりにされてこようとしている。

だから、犯罪行為をしても自分の権利を主張し、刑事処罰を受けることを人権侵害だと錯覚する傾向まで出て来ている。

99条にある日本国憲法の順守と言う義務があると言うことを、中学生用の教科書では強調しているものは少ない。日本国憲法の順守と言う事は他者の基本的人権のを尊重すると言うことであり、いじめは他者の基本的人権の侵害に当たり、かつ、行為によっては犯罪行為であるということを学ばせなくてはならない。

一時期あった「道徳」という教科を戦前の軍国主義的教育に繋がるとして嫌悪し異常なる排斥を行ってきた偏った妄想と思想を持った教育界での勢力は、日本国憲法の尊さと崇高さと、第98条にあるこの憲法は国の最高法規であってその条規に反する法律・命令・詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部はその効力を有しない。という事は、この憲法下にある国家では個人の意志や団体の意思による私的なる法は施行されることはないのである。と言う事を理解してはいない。

犯罪行為は「法」によって裁かれるということに信頼を置いていかなければならない。

即ち、未来の子供たちには日本国憲法を順守し、他者の基本的人権を侵害する行為は犯罪行為であると言うことをきちんと教えていくことが非常に大切である。

逆説的に、日本国憲法をしっかりと学んでいない妄想思想の教育者たちが間違った価値観からいじめを行っている加害者側の人権侵害を訴えたりするのであって、犯罪行為を行ったものを反古にするということと勘違いをしているものがいじめを助長している。

守るべきは犯罪行為に苦しんでいるいじめられている側の人権である。また加害者側となっている者が犯罪行為を行っている場合、法に従って処罰することは人権侵害ではない。


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2012年07月16日

子供の世界と言う聖域 U

「いじめとは、立場や力の弱い者に精神的、肉体的暴力を加え、人に、精神的、身体的苦痛を与えること。」とある。遊びでもおふざけでもなくけんかでもない。いじめと言うのは正当な人権侵害である。

人間世界で嫌な事が、すべてなくなればどんなにいいかと思う。しかし、人間は全知全能ではないから、毎日、多くの人々が多くの問題に直面している。

もし、普段の生活の中で大人同士が、街中で個人を集団で暴力していた場合、たいていは誰かしらが警察に通報するであろう。そのことによる、解決方法がおこなわれる。

それがもし、子供同士で同じ事が行われていた場合、たとえ暴力行為が行われていても、警察に通報する者はいない。

それは、けんかやふざけ、遊びなどととるからである。またそれが学校内で行われていて、その現場を教師が目撃したとしても、たいてい注意で終わってしまう。もしその時点で打撲などの負傷をしていても比較的そこで終わってしまう。しかし、それが大人同士であれば、傷害罪=他人の身体に障害を与える罪にとわれる。

問題は子供が加害者だった場合、解決したい気持ちはあっても、実際には、どのように対処してよいか分らないことである。

そのため、学校では「いじめ」は実際に起きていても、教師たちは「いじめ」と言う言葉に異常に反応する。それは、解決するためではなく、「いじめ」は発生させてはならないものだからである。それは現実に起きていても、教師たちはタブー=それを見たりそれに触れたりすることを禁止され、この禁止に違反すると自動的に災厄に見舞われるとされるもの。扱いをし、「いじめ」とは認定しようとはしない。と言う事は、誰も問題解決をしようとはしないと言うことになる。

大切なことは、「いじめ」を発生させないようにすること=不可能なこと、ではなく、発生している「いじめ」にどう対応するかである。「いじめ」を解決すると言う事は、「いじめ」による、加害者の精神的、肉体的暴力を止めさせ、被害者側が被っている精神的、身体的苦痛から被害者である生徒を救出すると言うことである。

勘違いの多くが「いじめ」と言う行為の深刻さの度合いを、被害者ではない第三者が評価することである。精神的、身体的苦痛と言うものは、受けている者が、その苦痛を強く感じ、「苦しい」と感じれば遊びであっても何であっても「いじめ」なのである。

だから「いじめ」自体はどこにでも存在する。

問題は、学校と言う場所は事実上、生徒以外は保護者などが自由に踏み込めない聖域となっており、教育現場では唯一の「大人」である教師だけが、接点をもっているだけである。その教師がもし「いじめ」を黙殺し「いじめ」をないことにしてしまえば、保護者、教育委員会などの「大人」社会との接点は断たれ、連携した「いじめ」に対する問題解決は一切行われないことになってしまう。

そうなれば、深刻ないじめにあい、生き地獄の渦中にいるような壮絶な思いをし、脱出方法が分からずたった一人誰にも言えず、苦しみを耐え続ける精神力が失われる苦しい日々を生き抜いている状態の子供を、救出してくれる人はあらわれないことになってしまう。

なぜ子供社会には、いまだかつて何度となく事実上の犯罪行為であるいじめと言う名による犠牲者がいながら、今に至ってもいじめは遊びや悪ふざけやけんかなどと言う対処がまかり通っているのだろうか。

もし、人はあまりにも酷い苦痛をを受け、その苦痛から解放されたいと願う時、救出方法が皆無だと思い絶望したとき、どのような行動をとるのか。

教師は、教育現場での「いじめ」を黙殺すると言う事は、子供の命を絶つ可能性がある事を、覚悟せよ。

子供たちがそのような行動をとることしか苦痛から逃れらない教育現場を、変えることは難しいが、何か対処方法を確立していくことは出来る。

耐えきれない苦痛に直面している子供たちを救いたいと心から思えない教育者たちは、教育者としての資格などない。
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2012年07月07日

子供の世界と言う聖域 T

生まれたての人間を、「人間」に成長させていくのは、教育か、それとも結局は個の本質の成長によるものなのか。

その成長過程の「子供」=未成年と言われる時期の教育を含む保護責任担う、「大人」と言われる側は、果たしてどれだけ、子供たちが作り上げている「子供たちの世界」の現実を真に理解できているのだろうか。

常に「大人」が「子供」を理解しようとする時、どうしても自分自身が「子供」だった頃を思い出しては、記憶と重ね合わせて理解しようとする・・・

しかし、その自分自身が「子供」だった頃の「子供の世界」と、今現在進行中の「子供の世界」とでは最大で数十年の開きがある。

と言う事は、もしかすると全く違ったものに変異しているかもしれない。いいや、ほぼ間違いなく変異しているだろう。

よく教科書で説かれている人の感情や子供の成長発達での情緒の形成などは、、長年の間、内容も変わってはおらず、不変的なように思い込みがちである。特に教師、カウンセラーなどが学ぶ心理学の教科書には「正常な状態での発達」の心理学を学ぶだけである。

そこにあるものもやはり、今現在進行中の「子供の世界」とはかけ離れてきているのかもしれない。

「大人」になると人は、過去の自分をさておいて「子供」に、子供らしくいてほしい、ましてや自分の中にあるイメージで子供らしいと思い込む。現実の「子供」の全てを受け入れようとはしない。教育とはそういうものだと思い込んでいるからだ。そして「子供」は理解出来ない「大人」と言うものとの、真実のコミュニケーションを止め、自分達の絶対領域を作る。

そしていずれ子供たちは、幼年期から幼稚園、学校と言った、自分ひとりで生きていかなければならない「子供社会」と言う場所に行くことになる。いろいろな意味で、「管理者」というものはその「子供社会」とは係わってはいるが、問題解決をしようとする時、その問題が、子供の成長過程に必要と思われる「社会性の発達」に必要な程度であれば、かえって、過保護からくる過干渉になり過ぎてはいけないが・・・

しかし、もしそれが、「大人の世界」の犯罪行為の域まで達していた場合は、「本人たちの問題解決能力を高めるための自主性に任せる」という教育理念を生かした問題解決方法とは全くの別扱いにしなくてはならない。

そのことが理解できていない、子供よりも賢いと過信している「似非教育者たち」によっての無能力のせいで、子供たちが絶対に行かなくてはいけない「学校」という場所で、もし子供が築き上げた「絶対王政」があった場合、そこでは、子供が王となっている恐怖政治が行われ、人権侵害、自己意思選択権剥奪、暴行、脅迫、恐喝、殺意なき殺人、すべての恐怖が存在する無法地帯となる。




(日本国憲法前文によると)
 日本国民は、恒久の平和を祈願し、人間相互の関係を支配する崇高な利を鵜を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公平と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免がれ、平和のうちに生存する権利を有する事を確認する。




全世界に視野を広げる前に、愛おしい子供たちの通う学校で繰り広げられている「専制と隷従」による人権侵害から、子供たちを救出する方法を真剣に考え出さねばならない。

加害者と思われた人の人権が守られていなかった頃から、この人権重視の日本国憲法を享受してから約60年、時代も変わり人権環境は整えられてきたが、えん罪の可能性の低い明白な犯罪行為まがいを犯しだしている者たちにまで、人権と言う名の絶対バリアを着せ続ければ、その者が誰も手が出せない「王」に変わり、新型の無法地帯が出来上がっていく。

それが、人々のために良かれと思って創りあげられた人権至上主義が使い方を誤れば、逆説的に民衆を苦しめる。

日本を動かしていると思われる、賢しこいと自惚れ、賢さの頂点を極めた自己を崇拝している、劣っている他者の意見に耳を貸さなくなって、事実上の進化を止めている知識人たちによる、そうした「大いなる勘違い」が、どんどんどんどん、国家の治安を悪くして恐怖社会に突入していく。

その中で、体力の弱い老人になるのは。こ・わ・い。

そして、未来の子供たちにはぜひ、心が痛くて、他人のために流す涙を持っている人になって欲しいと願うばかりである。
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2010年12月11日

言論・表現の自由の悪用

 みんなに、いろいろな自由が憲法で保障されている。

 しかし、だからといって何でもかんでも好き勝手していいという意味ではない。

 また、人間社会の中で生きる上で法に抵触しなくてもお互いに迷惑を掛けないようにモラルという自己規範をもっている。「常識」と言われるもので確かに自己流で基準も曖昧だが。 

 今、18歳未満の性行為の露骨な描写が盛り込まれた漫画やアニメの販売・レンタルを規制する東京都青少年健全育成条例の改正案について、賛成、反対の論議が言われている。

 青少年保護か 表現の自由か・・・

 なぜ、そこまでの事をしようとしているのだろうか。

 理由は・・・

 表現の自由を弾圧したいからか。

 都の担当幹部は、改正案を提出した理由をこう説明する。「子ども向けの漫画に、性行為を助長するような表現が横行しているという苦情が多く寄せられ、世界的には児童ポルノ排除という流れもある」

 「苦情=(他人から害を受けている状態に対する不平不満の気持ち)が多く寄せられ」とは多くの人々がそう思っているいうことだ。
 
 日本国憲法 第21条
 1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない
 
と、あるが、また、
 
 日本国憲法 第12条(自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 利用する責任があり、濫用してはならない。

 きっと、それこそ自由というものを自由に使わせると行き過ぎて、他人に迷惑を掛けていても濫用し続ける者が出現する可能性を見越してわざわざ同時に謳っているのだろう。

 公民の教科書には「自由とは無制限ではなく制限を受ける場合があります。」「また独裁国家や軍事政権の国でみられるような思想や意見の弾圧は決してあってはなりません。」 

 では今回の改正案はどちらにあたるのか。そこが肝心だ。

 次の問題はポルノ=(性行為の露骨な描写を主題とした書画、写真、映画など)を18歳未満を対象にしてもよいかということだ。

 そして「言論弾圧」されそうだと喚いている者側も、このポルノを「大人を対象」とする事と「18歳未満を対象」にする事の意味の違いはきっと理解しているのだろう。

 が、しかしなぜ苦情が出るほどの見るに見逃せない異常性を感じる作品をあえて「子供」に見てもらいたいのか。そちらの異常な行為の異常な動機が知りたい。

 「性」というものを崇高に捉えることもできるが、徹底的に第一次欲求としてのみ受け入れる事も出来る、その選択は成人にすら難しい。それを子供にさせたいという願望を果たしたいという作者の欲求は、表現の自由を濫用して無抵抗な子供たちの心に侵入したいに違いなく・・・

 作者も何かしらの「快感」を得ているに違いない。

 同じポルノを表現しても受け手が「成人」ではつまらない。そして触れずして性的興奮を相手に与え無抵抗の心を犯すのは、確実に自己陶酔できるのだろう。
 
 じゃー、子供に心の面を教える前に、性的快感をさせたい動機を聞きたい。なぜ、異常な性的興奮・快感を作品で、もよおさせてみたいのか。わざわざ「成人」でなく「子供」をターゲットにしたいのか。それは本当に正しいことなのか。そこまでの異常で過激な性描写を、まだ判断能力、脳細胞の分化過程の未熟な子供たちの身体に与えるべきなのか。

 作品を出版しその作品が「子供」の手に渡るまでに関わっている「成人」たちは、みんな承知の上なのだろう。

 でも言う。「言論弾圧」と・・・

 見苦しいのは、どちらだ。

 崇高なる「言論の自由」を汚すな。
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2010年10月09日

偉人

 今年のノーベル化学賞に根岸英一さん(米パデュー大学特別教授)(75)と鈴木章さん(北海道大学名誉教授)(80)が決まった。

 2人とも、パデュー大の故ハーバート・ブラウン博士の下で学んだ同窓生で、 そして受賞対象となった技術について特許を取得しなかったとのこと・・・
 
 経済的なメリットは逃したかもしれないが、特許を取らなかったことで技術は世界へ広く普及し、その事で研究者最高の栄誉への道を開く一因にもなったと言われている・・・
 
 根岸氏は「特許を取得しなければ、我々の成果を誰でも気軽に使えるからと考え、半ば意識的にした」と述べた。

 もしかしたら、アメリカ映画によく出てくる財団などを創設できたのかも知れず、自分だったら失ってしまった儲けを思い返しては逆説的な卑屈精神の持ち主になっていたのかもしれないが、さすが潔くかっこよ過ぎる。

 まだ日本人にも真の偉人が残っていたのだと、妙な意味で感動した。古き善き日本人たちが持っていた「大らかさと潔さ」が伝わってきて、現代人の変異を彼らによって認識させられたような気がした。

 最近蔓延している隣の芝生は青い的な妙な自己カウントによる自虐精神により自分で自分の人間的視野をどんどん狭めていき、魂そのものがブラックホール並みに内に向かってるのを感じている。

 昔の日本教育の傾向として、よく子供の頃「少年世大志を抱け」の如く「夢」を持つ事が推奨されていた・・・

 しかし純粋すぎるがゆえに、夢の行き方を間違えると現実逃避になりかねないので最近ではきっと中止になっているのだろうが。

 これだけネット社会になり情報が否が応でも入ってきてしまうと、自称偉人やマインドコントールを加えて偉人になった者ではない真の偉人になることは不可能に近い。

 ネット社会の功罪の影響で無欲の境地で居続けることは難しい・・・

 現代人なら「特許を取ると、儲けは何ぼになりますか。」と真っ先に利益優先で、貢献や偉業などの見えないものには価値を抱く心などはとっくに無くなってしまっている。「損」や「負け」になっていないかばかりに気を取られ、そんな狭い境地ではチャレンジ精神などは真逆なものとなっていくだろう。そしてその精神は次の世代に受け継がれていく・・・

 彼らの世代にはあった何かが、彼らを真の偉人にしたのだろうか。
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2008年09月29日

評価の一本化の嘘

 子供たちの教育を担っているつもりの日教組が自己を批判されたと、だだを捏ねている・・・

 今、教育現場ではアダルトチルドレン教師、無気力教師、自己満足教師など・・・

 子供たちの方が、教師たちをうまくあやしているのが現実だ。

 はっきり言って日本は敗戦のショックで戦後・・・自己否定と完全自虐体制に入ってしまった。日本という国家の過去からの存在価値まで、完全否定してしまった。

 よい事から悪い事まで・・・

 教育も影響を受け・・・戦後はひどく思い込みの激しい方向へ傾き、道徳教育、国旗、国歌に始まって日本という文化・歴史までも・・・全て否定し続けている。

 そして目指したものは何だったのか。

 自己崩壊をし自信と目標を失った日本国は復興した現在でもなお、自己の実体化すら掴めず、アメリカの模倣もどきをし続け幻想のなかでもがいている。

 教育を担うべき日教組は変異し続け、傲慢なる妄想は傲慢なゆえに多様な自己への評価をも認められない逆説的ファシズムの様子を呈してきているのか。

 教育という大義名分をかかげれば何でも許され、自己を完全なものとして主張する姿はもはや民主主義とはいえず、教育者の側という立場を忘れている。

 今回の日教組の対応は・・・子供たちのイジメの源といえる“いろいろな形の他者や意見を認めない心”と同系の思想に通じる。
 
 いろいろな意見を認めない・・・自分に優位な意見・思想しか受けいれない態度は、形を変えてもファシズムとなんの相違も無い。

 戦後教育を受けた側としては・・・教育現場の荒廃ぶりを見ると、完全自己満足の日教組の妄想の通りの崇高な結果が出ているとは言いがたい。

 真に教育と言うものが国家形成の中で、どのような役割を担っているのか・・・
 
 世界の変革、国内の情勢の変動や子供たちの未来に取り巻く変化に、未熟な情緒のままの組織はついていくどころか後退している。

 国家を愛ではなく、憎悪に支配されているものに教育は担えない。

 日本国にとって大事なことは、過去の反省に基づき民主主義教育をすることであり、子供たちに心身の居所となるべき自分たちが愛し信頼できる国家をつくることである。

 結局、世界での居場所は日本国であり・・・居場所のもてない魂は漂流し続け、自信のもてない魂は自己否定をし続ける。

 はっきり言う・・・

 愛国心、道徳教育、規律、指導などが悪いのではなく、それらの国家体制の使い方が悪いのであって、正しい国家体制下では正しいものになりうる。

 人の心に憎悪、自虐心を植え付け、自信を喪失状態にもっていき、敗戦前の体制に心が戻らないように潜在的“封印”をかけなくても・・・どちらにしても世界の中の日本として逆に新しい役割を求められていて、過去の体制になど戻れるような状況ではない。
 
 もうそろそろ、世界の中の日本としての自覚を持ち、過去幻影に逃げている状況ではない・・・

 今回の硬直した日教組の無能の反応に・・・システムの激変が求められるこの現代に至ってもまだ進化していない日教組の限界が見えた。

 See you again!
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2008年06月24日

体罰と教育

 梅雨にも異常気象があるらしく、作物に影響がでるらしい・・・小雨

 東国原知事が「愛のムチ条例などを作って一定の体罰を認めてはどうか。」などの考えを述べたということで、TVで体罰についての話題が取り上げられていた。TV

 場の空気を読めない言動をする事を・・・KYと言うが。

 単純明快の悪い事ならいいが・・・かしこい悪に対応できないKY教師に、愛のムチ=体罰で、単純明快に問題解決したなどと片付けられては困る。

 人の心が複雑になり、本音と建前を子供ですら使い分ける現代・・・

 体罰を加えてまで怒ろうとした時、目に見えている事象だけでは、本当の真偽は推し量れない・・・意外と事件の全容は思っているのと全然違う時がある。

 それだけ今の子供たちはそんなに単純ではない。

 そして子供たちも・・・うっかり八兵のようにうっかり真相をしゃべったり迂闊な事などはしない。

 つまり・・・彼ら子供たちは物分かりの悪い大人たちを相手にしていないという事なのだろう。

 教師・保護者たちの問題解決能力を信じていない。

 子供たちはきっと、自分たちの気持ちから価値観などを大人たちが理解できるとは、最初から思っていない。

 今の子供たちは無気力無関心なのではなく、“賢すぎて”結論を先に見限ってしまい、熱血になる前に“諦める”事をしてしまうのだ・・・

 だから・・・何も弁明したり、説得しようともしない。

 その姿は“大人”の分析では、無気力無関心に見え“やる気”が無いと取らえられがちだが。

 子供たちの間での善悪や価値観の捉え方と大人が思い込もうとしている善悪や価値観も違ってきて、心も古い基準から個人差も大きくなってしまっている今・・・

 何が正しい判断なのか難しい。グッド(上向き矢印)

 教育界だろうが、相手が子供だろうが体罰と称して、人に暴力を使う事は許されない。どのような理由や言い訳があろうと、問題解決に暴力を決して使ってはならないと、教えるのが教育だと思う。

See you again !
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2008年02月19日

ゆとり教育の正体

 人は、厳しいより“楽したい”生き物だ・・・

 がんばらなくていい“好きにしていい”というのをPCまで好き勝手に“好きに指定医”と変換した・・・

 と、言われれば・・・無理して苦しむやつなどいない。

 と、“ゆとり教育”は子供たちにそう言った。

 昨年12月下旬、福島県相馬市から県立相馬高校の2年生14人が、元文部大臣の有馬朗人氏(77)を東京に訪ねてやってきた・・・という記事を見つけた。

 生徒たちは研究発表の資料を携え「学力低下の要因の1つは『ゆとり教育』」「授業で習うことが社会で役に立たないから、学習意欲・関心が低下している」「教員の質も問題だ」。資料には有馬氏を詰問するかのような学力低下の“分析結果”が並んでいた。

 物理学者で東大総長も務めた有馬氏は、平成8年に「ゆとり」「生きる力」を打ち出した中央教育審議会の当時の会長で、「学力は下がっていない」ときっぱりと反論する有馬氏に、生徒は目を丸くした・・・との事。

 “ゆとり”とは、誰の為・・・になのか。高齢化している教員のためにやる事を減らし、職務を楽にする為か。学校での学習レベルを下げて、学力低下にならないようする為には、みんなを塾に行かせて国おこしのためか。謎は深まる。

 むかしは公教育の教科書のレベルは高く、真剣に学習すれば塾や家庭教師などの力を借りなくても、高い学習内容を習得出来た・・・すごいお金をかけなくても“偉い人”になれた人も一杯いた。

 しかし、“ゆとり教育”制度による最高のカリキュラム自体が“低く”設定されてしまっている公教育だけを受けているだけでは、大学などの高い教育を受ける機会も得られないとなると・・・

 はっきり言って、“お金”が無いと“何にもなれない”という事になる。

 お国が作り出した、“格差”が、見えない身分制度をつくり出していくのか。がんばる気があっても物理的な経済格差という壁を、子供たちに突きつける事になる。

 憲法にある、学問の自由とは・・・

 国の端っこで・・・“許さない”と一人叫んでも何も変えられないが。

 いつもの事だが、頭の中にフランス革命の頃の身分社会の恐怖のイメージが浮かぶ・・・国民の貧困層が食糧難で食べるパンも無い時に、真偽は諸説あるらしいが王妃マリー・アントワネットが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったとされる逸話が思い出される・・・

 戦後どこまで民主主義が成熟したかは分からないが、今の時点で何世紀むかしに逆行してしまっているのか・・・もう分からない。

See you again !
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2007年12月29日

教育再生会議

 夜、久しぶりに冷たい雨が降っていた・・・昔ならきっと雪だったのだろうが、温暖化は進み続けているのだろうか。

 25日、首相官邸で政府の教育再生会議の総会が開かれ、第3次報告が決定されたとの事。飛び級や大学への飛び入学を促すための「6・3・3・4制」の弾力化や、徳育の「教科化」を明記された。

 3次報告では「学力の向上に徹底的に取り組む」という目標と「教育再生の原点は、事なかれ主義や悪平等と批判される状況を排し、真に保護者や子供に信頼される公教育の確立にある」とうたっている。

 再生・・・ということは、今が、“崩壊状態”ということなのだろうか。

 学力の向上・・・どの時期と比較してなのか、低下したと言うことを認めているのだろうか。

 では、なぜこうなった・・・

 お国が薦めた“ゆとり教育”のせいではないかと、専門知識、分析結果など無くても、断定できる・・・が。

 教育を受ける者達は、無抵抗にお国に従っていくしかなく、後になって、“ゆとり教育”の功罪を反省されても、一生“ゆとり教育で育ったやつ”と言われ続け、使えない厄介者扱いさえ始まっている・・・

 その結果が分かりきっていたため、導入当時から素人である一般の保護者からも、不安の声があがっていた。

 それでも、強行に取り入れられ・・・結果は、思っていたようになってしまった・・・学力低下、無気力、どんな時でもユルキャラ諦めモード。

 それを、教育の荒廃というなら・・・意図的か無知のどちらかの思考の者の仕業だ・・・と妄想できる。

 “ゆとり教育”という謎のシステムを、なぜ導入に至ったかも謎だが・・・

 はっきりと言おう・・・いくら子供から成人するまでの、教育や環境の成長過程を“ゆとり”にしてあげようとしたって、成人して社会人になったとたん急に社会から自己判断、自己責任能力を求められる。

 そして、微塵の甘えなど許されない徹底的な厳しさにさらされる。あえていうと、人生は人との競争、不平等、理不尽、差別など・・・壮絶な思いと忍耐が待っている。

 だからもしかすると、チョットとした苦悩を地獄と勘違いしたり、地獄の定義や無知でかえって地獄の識別も出来ない混乱感覚の人間になってしまう・・・

 教育とは・・・社会人として生きていける、肉体と精神、社会性を身につけさせてあげる事。

 国を滅ぼすには、次世代の国民を、無気力、無忍耐、無知にすればいい・・・そんな思想を密かに感じる。やっと、気付いたかい・・・
See you again ! 


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2007年12月01日

日本のマンガ

 きょうは少し暖かくなるようだ・・・

 朝のニュースで、タイで日本の漫画がワイセツ容疑?で押収という報道をやっているのを見かけた。一瞬だったので詳細は不明・・・

 漫画といっても一応、児童・少年・少女漫画(小学生〜高校生)と成人向け漫画(18歳以上を対象とした、性描写を含む漫画)と大別されているらしい・・・

 少女漫画の原点は、1953年に手塚治虫が連載した“リボンの騎士”頃らしいが、美少女戦士セーラームーンにセックスシーンが登場する頃から、想定年齢層の低い雑誌においても性描写が蔓延していったらしい。最近ではあまりに過激な性描写の作品ばかりが掲載され、エロ漫画誌と区別の付かないような少女漫画誌もあるとのこと・・・

 ここが問題だ・・・想定年齢層?それは誰が決め、読み手に理解出来ているのか。サイトの有害情報とキャラがかぶっているようなものがあり、はたしてサイトの有害情報とどこが違うのか?マンガに描かれているキャラクター達の顔はとてもかわいいがエロ漫画だ。

 ところで、世界では子供達が対象になりやすい書籍にここまでの表現を認めているのだろうか・・・

 書き手も、逃げてはいけない・・・想定年齢層は成人だと思っていたので、子供が読んでいるとは知らなかったとか。劇薬は子供の手の届かない所に置きましょうと一緒とか。

 やりすぎで、子供が読んでいたらどうする。止めろ!・・・とうとう言ってしまった。

 こ、この憲法にある“言論の自由”が目にはいらぬか!ものども、ひかえよろ・・・われらは“言論の自由”という聖域にいる。モラル、良識、子供のこころの育成と保護など、理想や自己規制の領域など、太刀打ちできぬは・・・

 いま、モラルハザードのいいわけに、最高法の憲法で保障されている“自由”が使われているときがある・・・それらが間違った使用をされた時の使用上の注意が、憲法のどこにも書いていない。

 戦前と戦後、現在、時代の進化により多くの変革をとげ、いま世界の中で日本は先進国と呼ばれている?・・・

 あの、権利の保障されていなかった時とは違い、現在ではもう逆に世界の中で日本は、世界のモラルの構築、世界を救う技術など、導く側になっていかなくてはならない。

 敗戦時、形やいきさつ、思惑などに不満はあるが、世界が日本国を民主化に導いてくれたという事を忘れてはならない・・・もう日本はあのとき導いてくれた側にいる。

 子供たちが読んでいい内容か考えたうえでの某国の日本のマンガへの今回の対処・・・日本は児童ポルノ先進国などといわれたり・・・日本の自国の自己規制の能力のなさが、世界に迷惑をかけている時がきているのでは。
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2007年11月29日

50年後の未来

 TVでリスの生活をやっていた。なかなか自分では巣を探せないので、見ていて面白い・・・

 きのうNHK教育で、“地球ドラマチック”という番組の中で、50年後の未来という内容をやっていた。子供向けの番組にしては海外製なので、かすかにスターウォーズ張りのセットを使い、お金がかかった大掛かりなものなので驚いた。

 エネルギー問題など未来に起こりそうな問題を取り上げ、今開発中の技術でその事が将来に解決可能かをえがいていた。

 未来の事というと、環境問題、人口、エネルギー問題などの地球規模の問題も多く、解決も困難なので悲観的になりやすい・・・深刻なものばかりなので、個人で考えても無駄な所まできている。だから、そんなの関係ネイの境地に・・・

 という事で子供向けなのに、現状の最先端の技術開発の状況と、その開発と研究によってどんな未来像が現実になるのかを映像で分かりやすく伝えていた。

 メッセージは、将来、絶望と思われる困難を、科学技術や世界の国々の協力で解決していこうなのだろうか・・・見ているほうも、技術の成果によって、今の世界規模の大問題も解決できるだけでなく、もしかすると映画の近未来の世界のような夢の世界になるのではないかと・・・希望がわいた。

 ただ実際は、何百年後かもしれないし、最後まで不可能かもしれないが・・・

 しかし、バラバラに科学の最先端の雑誌を呼んで、それから未来像を空想するより未来像が分かりやすく、もしほんとうなら、楽しい未来が待っているのでは・・・と思いたくなった。

 温暖化による環境破壊、石油が枯渇した後の代替エネルギーの問題などの深刻で恐怖の未来像ばかり提唱するのではなく、ほんとうに解決可能なシュミレーションも提唱し希望を与えようとしているのがいい。

 最先端技術の進化も現実なのだ。

 深夜によくNHKで、過去の戦争や古い昭和シーンをやっているが、ある意味では過去も大事にしなくてはいけないが・・・道徳教育にも、同じことが起きている。

 この番組を作っている人たちの、子供の教育には未来への希望も大切だというバランス感覚がすごい・・・気を付けないと、日本の子供達に希望を抱くという感覚が無くなってしまう。
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2007年11月25日

こどもの携帯電話

 レンタルで借りて、映画サンシャイン2057を見たら、オマケでついていた米のドラマのBONESの第1話のほうが面白かった・・・ような。

 今、子供のケータイ電話の利用者は約750万人になっているそうで、便利な反面、それにまつわる問題も多くなっている・・・

 携帯電話はふつうの状態だと、有害サイトと言われている内容のものでも、子供でも閲覧できてしまう。だからと言って“変なサイト見てはいけません”と、親が言っても・・・

 携帯3社は子供が携帯電話の有害サイトを閲覧できないようにするフィルタリングサービスをはじめた。

 フィルタリングサービスとは・・・有害と思われる裏サイトや出会い系サイト、アダルトサイトなどを判別して閲覧できなくすることで、NTTドコモなど携帯電話大手3社では、フィルタリングサービスを無料で提供している。

 前に、新聞の記事に高校生がインターネットの殺人サイトを見ていたら・・・とあったので、自分も検索してみた。そんなに凄く、一体、いかがなものなのか?と思い見てみた。

 確かにそのような映像を含むサイトが出現し、挙句の果てに、そのテーマに関連するサイトをどんどん紹介してきた。もちろん閲覧者が誰であれ、無関係に閲覧できる。

 そこには、発信者が自分勝手に製作した映像が、規制なく映し出されていた。さすがに、凄すぎると感じたもの多い・・・視聴者の投票の結果で視聴制限が設けられているらしいが。

 テレビ、映画などは、プロがあらゆる影響を考えて自主規制をして比較的きちんとつくってある。しかし、ネット上の奇異でやり過ぎた映像などに表現の規制は無い。また、変な意味で珍しく魅惑的だ。子供達だって同じように感じるだろう・・・

 表現の自由は大切だが、受け手が大人の場合は本人の判断力に任せてもいいが、サイトの内容によっては、精神の発育過程の子供たちへの悪影響は確実に存在する。

 ここまで情報が氾濫し、手に入れられる経由も多様化してくると、よい意味での子供たちへの規制も手がつけられない程にまでなってきているが・・・
 
 それでも地道なことを、やりつづけるしか方法はないのか・・・

 そして、表現の自由は憲法にあるからといって、何をしてもそれこそ自由という意味に履き違えてはいけない。悪いことを素直に認めないで突き進めば、自由という名の逆暴君だ。
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posted by WHO IS I ? at 14:12| Comment(4) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月13日

いじめ6倍?

 11月6日NHKの朝のニュースで文部科学省の“いじめの実態調査”で、いじめの定義を、いじめられた側がいじめと思ったらいじめとするというように、かえたら今までに比べ6倍になったとの事。

 いままで、0件という状態が続いていたらしいが、逆に0件なら異常事態だ。その様な事が、いままで本当なら、“いじめられていた”と全国でだれひとり言えなかったという証明になる。

 “いじめ”と言う内容は、奥が深く深刻度もそれぞれ異なり、いじめをした方と受けた方でも認識にも差があったり、認定も難しい。

 が、しかし、やはりいじめをした方がいじめをしていると認知しようとしていなくても、されたと思っている方に苦痛があれば、やはりいじめになるのだろう。

 学校によって全く違うが、見ているといじめが起きたら相談しようというパンフレット最近よく見かける。今までの様に、タブー視するのではなく、どんどん表ざたにしてみんなで言いやすい土台を作っていく事も大切だ。

 いじめが深刻で、本人が心を病んでしまい恐怖心から告発すら出来ない状態に追い込まれてしまうと、発見やサポートするのも難しいので、結果が深刻になってしまう。

 よく社会にでてもいじめなんかあるので、それに絶える強さを育てる事も大切という意見も聞く・・・それは、命にかかわるほどの壮絶ないじめのケースを知らない無知な人間の言い分だ。自分が被害者と同じ立場になったらそんなお気楽なことが言えるのか見ものだが・・・

 アメリカのいじめ教育で、先生が比較的表現力の弱いいじめられやすい子供達に、想定できる遭遇する場面を用意して、答え方や対処の仕方を言ってもらい、優しすぎや考えすぎもよくない事を指摘して、そのような態度も相手につけ込まれたりいじめに遭いやすい事を認識させていた。が、人は生まれつきの性格というのもあるので、教育や指導で簡単になおるものでもないが・・・

 ただ重度のいじめがあった場合、Wikipediaに法的な保護とあったが、いじめが存在したかを証明するのですら難しく困難を極め、思いどおりに安心できる保護などできないのではないだろうか。

 いじめという事は、確かに永遠に絶滅はできない・・・

 しかし、いじめにより、心身の損傷や命に及んだ場合の中に、防ぐことが出来たものも多いと思う。自分にあてはめて、いざどこに助けを求めるかと考えてみたが、具体的に安心できる所が思い当らない。

 学校や理解の無い保護者以外の場所や組織も必要だが、なかなか存在しない・・・
 そう、それが現実だ・・・
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2007年11月07日

教育という名の虐待?

 今日は、晴れ、原油高が気になる・・・まさか、オイルショックの再来だろうか。

 NHK教育できのう、“みんな生きている”という子供向け番組を偶然に見た・・・

 その中で、小学生と中学生にニワトリをナイフでさばかせて、その後そのさばいたニワトリを食べさせていた。

 あくまで個人攻撃という観点ではなく、現代の教育的風潮という意味で言わせてもらうと、素直に考えて、大人である自分ですら、その自分でさばいたニワトリをすぐ食べれるかというと・・・食べれない。その上、生きて動いているニワトリの頚動脈をナイフで切るには勇気がいる。

 保護者の方は、生き物の命に感謝する気持ちを養いたいという信念をきちんと持っての事だそうだった。

 ただ気になったのは、子ども達が今まで親に言えなかったけど、ほんとうはやりたくないと言っていた事だ・・・素直に彼らの立場や気持ちを考えれば、あたりまえだ。

 自分の親の話では、昔は家で飼っているニワトリなどをつぶして、料理していた所もあったと聞いたことがあるが。いろいろな意味で、慣れも心を鍛えるが・・・また最近、生命の偉大さを感じてほしいという願いから、お産のシーンを子供に見せたり、お葬式で亡くなった方を見せたりするシーンをみかける。

 それにはそれなりの教育的信念と教育的効果の願いがこもっていると、理解は出来るが・・・

 ただ問題なのは、本人が嫌がっている場合でも、無理にその様な事を分からせようとして、やらし続ける場合だ。

 自分たちは大人になっているので、きっとたいしたことと感じなくなっているのだろうが、子供のやわらかい未発達な心にはどう感じてしまうのか、丁寧に考慮しているのだろうか・・・

 最悪の場合、親の願いとはうらはらに、教育的理想や概念までに高める前に、畏怖や恐怖しか抱く事が出来ず、強い恐怖心からトラウマや狂気に変わっていくこともある。理想どうりにいかず、深い心の傷になってしまう場合を、考えたことはないのだろうか。

 いつかいやでも大人になり、それからゆっくり学ばしてはいけないのだろうか?

 そう、どんな崇高な理念に基づこうが、教育という大儀名文を振りかざそうが、拒絶しているのにやめる自由がなくては・・・虐待だ。
 
 昔、アメリカの映画で幼い頃、殺人現場をみてしまった女性が記憶が無いうちに人を殺してしまうという、すでに多重人格を取り上げていて、子供の時のショック体験が大人になっても、精神を蝕むことを描いていた・・・

 正常に行われるべき年齢にみあった普通教育範囲内のことを、甘やかせてさせないということと、混同してはいけない・・・

 ショックをともなう行為の無理強いのことであって、子供からすると保護者、教師などの大人側は、一種の権力者だが、自己判断でやらせているケースが多く・・・

 甘やかす事と、心を大切に配慮してあげながら進めていくことの兼ね合いをするのは、たしかに難しく、見分けにくい・・・

 親や教師、成人になっただけで、全知全能になったのごとく、子供の本当の気持ちや心の成長も理解しようとしないで教育論を考えていること事態、もうそれは教育ではない・・・

 と、子ども達のかわりに偽教育者を、怒ってあげました・・・

 君たちが大人になるまでの我慢だ!必ず自由になれる日はくる・・・
posted by WHO IS I ? at 10:51| Comment(2) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月28日

たけしの日本教育白書

 一歩間違うと11月に近いこの時期に、台風が来たという記憶はあんまりないが・・・きょうはすっきりと晴れている。

 よく公機関からも何とか白書とかいうものが発行されているが、分かりづらく面白くないし、タブーも多いのだろうから現実に近づけているか分からない。

 きのうTVで“たけしの日本教育白書”という番組で子ども達の教師に対する本音をえがいていたが、考えてみると教師は日常、学校という閉鎖された子供対教育者という構図しかない特殊な世界に生きている人達で、子ども達の本音に教師たちが気付く能力があるかすら問題だと思う・・・

 夜回り先生という夜の街にいる子供たちの話を聞いて回っている元先生がいるが、その方に寄せられてくる相談内容を見ると、リストカットを止められない、性病の悩み、異性関係などたぶん家庭や学校ではタブーとされてしまう内容が多い。

 未成年ということを本人も認識はしているので、タブーに触れる問題を抱えてしまった時に、実際どこに相談するのかという時に、夜回り先生のような窓口があればと思うが実際にはない・・・

 最近の子ども達の方が大人並みの感性が備わってきているし行動も早熟で、教師の人間性や判断能力などを信頼しないのだろう。

 TVでよく今時の子ども達という特集を取り上げているが、それを見ると大人たちは、大人になってしまうと子供の世界との接点がなくなってしまい、また子供は本当のことを大人に教えてくれないので、現状の情報が把握出来ていないことが分かる・・・

 これからの学校は大変だ。子ども達も大人並みの問題を持っていたり。親も教師も、本当の意味で大人にならなくては彼らに信用してもらえない・・・
See you again !
posted by WHO IS I ? at 11:13| Comment(2) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

道徳???

 昼は真夏日、夜は秋めいて涼しい。でも、昼間に歩くとまだまだめまいが・・・

 安部総理の辞任で、今となってはどうなるかわからないけど、道徳が科目入りすると少し騒いでいる。いったい何を教えたいのだろうか。今の若者のモラルハザードを止めたいからなのか???

 本当に彼らの心に、モラルはないのだろうか。分っているけど、若者の間にある目に見えぬ総意に従っているだけではないだろうか。かっこよく、さり気なく仲間の中に居続けたい者も多いのだろう・・・人には優しく、思いやりをもって助け合うことの大切さを説くのが、道徳教育の主流になるのだろうか。

 優しい人か・・・人の心を考えすぎて人の心を傷つける事ができず、人を傷つけるような言葉も言えない人。その評価は、道徳面からみれば、いい人という評価になるだろう。

 しかし、今起きているイジメにより自ら命を絶ったり、事件の被害者となってしまう方々は、悲しくもその優しい人なのだと思う。悲しいぐらいの優しい心の持ち主では・・・

 まだ相手に、痛みを微かでも感じる心というものが存在すればいいが。人間が空想できる心というものを持っていない、人の形をした有機体なのかもしれない。

 昔、日本刀には魂を吹き込む儀式をして仕上げたという・・・形は日本刀としては完成しているのに。

 道徳など、教科にしてマニュアル化しても、魂の無い者には届かない。教える側の、教師、保護者自体のモラルハザードも表面化して、子どもからすると誰でも加害者になりかねない。だから、子ども達が昔で言うところの子供らしく人を信じる心などが持てない。情緒、心が育つにはある程度、愛と信頼が必要だ。時間と手間隙もかかる。

 今の時代、魂を吹き込む側の親と教師に魂が残っているか、それが問題だ。
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2007年09月01日

9月1日か・・・

 今日は土曜日で学校はお休みだけど、昔の学校は土曜日は休みではなく、午前授業だった。3学期制のため9月1日は、2学期の始業式が行われていた・・・

 今、学校はうそのように、ユルユルモードになっている。教職員も高齢化が進み、特に中学校には校門に竹刀を持った先生や、コラーーなんて大きな声をだす先生もいない。走ったり、自転車に乗ったり、生徒のスピードについて行けるかすら心配だ。学校じゅうが、お寺モードになっていた。一見、争い事や、トラブルが無さそうな静かな状態だが・・・

 昔ゲームで、神様というボスがずっと助けていてくれたので味方だと思っていたら、実は最後のボス敵だったという事があった。そのボスが言うには、最初は助けるのがおもしろかったけど、だんだん強くなり過ぎたから邪魔だし、飽きたから始末する。との事だった。自分の自己満足のためにいい事をしていたので、相手の気持ちなど関係ないのだろう。

 今の子達の間で、親友とはどの様な扱いになっているのか???友達と思っていた人に、メールで秘密を書かれたり、ある日突然、みんなに無視されり・・・果たして、現代の友情とは、いかなるものなのか。

 昔に比べて教室では目に付くような騒がしいトラブルもほとんどなく、一見静かにみえるので、担任はきっと思うだろう。今年のクラスの子たちは、おとなしくいい子ばかりだ。今のところ大きな問題もなくいいクラスなのよと、本気で思っていたりて・・・

 こども達はどうせ解決してくれそうにない、のん気な担任と、何も分かっていないのに、まとはずれな心配をしてかえって足手まといになりかねない親などに、相談も助けも求めない。友達は友達で、お互い甘えることは悪い事で、甘えるやつはダメ人間扱いという風潮があるので、警戒しあってしまう。

 楽する事と、体をやすませる事と、甘える事と、助けが必要な事などを見極めずに拒否されるからだ。

 いつの日か・・・人間というものはそう強いものではなく、自分はこんなにも、もろく、弱いものだと実感する日がきて、初めて人はほんとうに優しさの大切さを知るのだろうか?今の親は、がんばり続ける事を美徳と感じ、甘える事は認めない。しかし、本当に苦しい時、だってある。限界になってしまう時もある。
 そういうとき、心から安心して休める所は・・・

 だから、仲がいいふり、がんばっているふりをし続け、ほんとうは疲れ果てていて休みたいけど、心から安心して甘えられる人も場所もない。

 目立つ事を恐れて、喜怒哀楽を表にださないように一人我慢し続ける。そして、彼らの心理戦はつづく・・・美しくおとなしい子ども達のいる教室は、一見平和そうだけど。
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2007年08月24日

講演会で、こんな事を思った・・・

 今日、教育関係者の講演会に出席した。朝から、嵐になって驚いた。約束なので、疲れるけど、行く事にした。台風台風台風

 内容は目新しい事はなく、かすかに古いというか、実際とかけ離れているというか、子供達の事を心理学や生活習慣など、学問や分析などで分かろうとする事がどうかと思うけど・・・

 人を理解するのに分析や決め付けが、先入観としてあると、真実が見えなくなる。その上最近は、いろいろな立場や複雑な状況にある子供達も多い。大人である教師の方は恵まれた環境で、学力を得ただけで職に就いても、人間としての境涯が広いとはいえない。

 厳しい言い方をすると、子供達の方が境涯が大人で、逆転してしまう場合もある。昔から心の成長は、人生経験と苦労をしたほうがいいとされているが、格差社会の今、苦労も格差となってしまっている。

 比較的恵まれた人には、想像が出来ない思いをした子供達もいる。心をすり減らしいっぱいいっぱいな気持ちで頑張っている子供達を、本当に理解できるだろうか・・・

 がんばれるうちは、幸せな証拠だ・・・

 心でも肉体でも限界に来た人の気持ちなど分かるわけもない・・・

 だから最近、子供の言ってくれることも、大事に聴きたい。かれらは、子供の形をしているけど、強く立派な大人の部分を持ち備えているかもしれない。

 もしかすると、大人や教師のほうが子供じみていて、子供達の方が、許したり、心配して気を使ってくれているのかもしれない。

 そう、かれらの方がずーと大人で、へたをすると、大人や教師を、相手になどしていない。当てにする事も諦めているかもしれない。そして、講演会を主催している側も、聴きに来ることができるような安定している人達の間で満足している???のを見て、聞き終わった後、そんな気がした。
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