2012年10月16日

抑止力





古き善き時代・・・

人々が恐れるものとして「地震、雷、火事、おやじ」という言葉があった。

今現在は・・・

人の心に「恐れる」という感情自体がなくなってきた・・・という所だろうか。

あちらこちらに発生しだした「小悪者」「極悪非道者」の起こすトラブルが些細なばあい、正しくジャッジしてスッキリと解決する場所や手立が存在しない。大きく法に触れるものは裁判という場あるが、「迷惑」程度のものが達が悪い。

「迷惑」というものであっても、迷惑をかけられている側の人間からすると大きなストレスを感じている事が多い。それが例え裁判ざたになる程ではなくても、ご近所どうしなどの長時間接触しなくてはならない場合など、そのストレスが心の底から解放されることは無いからより深刻になる。

どちらかが引越せばよいのかもしれないが、予算や住宅環境などの立地条件が絡んでしまい、中々行動に移しにくい。

素直に「迷惑」をかけている側の「小悪者」「極悪非道者」などが、非を認めて、その迷惑行為を謝罪し止めればいいが、大抵、決して謝ることも止めることもしない。

じゃぁ、どうすると止めるのだろうか。人がいうことをきかないのは、たぶん罪悪感と怖いものが無い時だろう。心ある者と心無き者が戦う時、やはり強いのは心無き者だからだ。

だからゾンビは強い。怖いもの無き人の姿をした者に立ち向うには、自己はいつでもでsurvival(事故、災害、危機、逆行などを切る抜けて生き残ること)精神を保たなくてはならない。最近は国家単位でもいえるが・・・

価値観、モラル、意識の多様化は、人々の心を混沌とし、日本古来からあった村社会での協調性というものを崩壊させ、治安の悪化を招いている。

いままでは、その個人の中に存在していたモラル意識が小さな悪事の抑止力になっていたが、これからはモラル意識無きゾンビ化した人間が増え続けていく。それに比べ、社会傾向は戦後、戦前の国家体制の反動から抑止力を行使する側=権力を弱体化させようという側の意識が強くはたらいてきた。それが贖罪であり正しいことと信じて・・・

しかし弱体化させすぎていけば、事実上の無法地帯になっていく。無法地帯の究極の形はマンガ「北斗の拳」が描いている社会だ。


必要なことは、不完全ではあっても個人の「人間の思想」ではなく、「法律」に基づく抑止力の行使であり、たとえ、情報過多による人類の価値観の困惑が起きてこようと、法の下の正義の順守をしていくことが大切である。


posted by WHO IS I ? at 07:05| Comment(0) | 勝手なる妄言・広大過ぎる話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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