2012年07月20日

子供の世界と言う聖域 V

ライオンがシマウマの親子を襲っているのは、食べるための狩りであって、遊びで楽しんいるわけではなく生きるためである。そこに罪悪感などは無い。

では同じ地球上の生物である「人間」と言うものと「獣」と言うものとの違いはどこか。

一般的に「心」があるかないかというところだろうか・・・

残念なことに人間の形はしているが、そこに正常な心の発達が伴っているのかと言う事は、外見からでは判断できない。

子供達の「情緒」が豊かに発達するには、情報過多やストレスが多い過密社会では、難しいことなのかもしれない。インターネットの普及によって、現代では、性的、暴力的、非人間的な中傷などの内容などを、幼い時から自由自在に手に入れる事が出来るようになってしまい、昔のように年齢に適した情報を与えることが不可能になってきている。

実年齢にそぐわない、非人間的で過度の刺激的な情報は、特に成長期である「子供」の脳の発達に影響を与え、人間を少なからずサディズム=他者を精神的肉体的に虐げ苦痛を与えることによって、満足を得る性的倒錯,嗜虐傾向をいう。的な傾向を強くさせてしまう。

「いじめ」という言い訳をして、いじめる加害者側は、弱い者いじめをすることで、自己の優越感、自分自体の親などからの虐げ、劣等意識などのストレスの解消と言う「満足感」を得ていると考えられる。

だからいじめている側には、「罪悪感」ではなく、「快感」しいては「爽快感」を感じている可能性がある。だから一度始めたら、いじめているやつらはいじめを「止めない」。

だからだんだんエスカレートして、いじめられている側の気持ちや苦しみなどは、きっと微塵も感じていない。

下手をするとたぶん、「気持ちがいい」のだろう。

しかし、行為自体は「犯罪」と言えるものも多い。

「大人」側は、婉曲なる表現で「いじめ」と言い訳をして、黒板のいたずら書き程度の行為から、集団でのリンチ、殺人未遂に抵触する程度の暴行行為をも含む言葉として、この言葉を悪用し、この難解で手間暇のかかる面倒な問題から長年にわたり、逃げ続けてきた。

そのために、苦しみ抜いたいじめられていた被害者側の子供たちに、何の救いの手を差し出すこともなく、辛く、ひどい苦しみを与えつづけ、唯一の救助者の責務を負っている無自覚の無責任教師により多くの救えたはずの尊い命を失わせてきた。

その罪は、実際に手は加えてはいないので自覚すらできていないが、事実上罪は重い。

弱く何の権限もない、同級生の子供たちが、いじめられていることを教師に訴えていたケースも多く、その子供たちは「密告者」として自分にいじめが降りかかるリスクを承知の上で、魂にある高潔な真の正義感と勇気により行動したのだろう。

それに比べ、初心にはあったであろう教育者としての志を忘れ去りし自称教育者たる教師は、自分と対等ではない「こども」たちとの世界で誰からも間違いを正される事もなく「王」として、好き勝手気ままに歳月を重ね、いじめに対する「いい加減な対応」や「非対応」を平然と、何の罪悪感もなく、行うようになる。子供たち以下の責任感しか持ち得ていない者も多い。

遥か昔「師」と言うものが持っていた「誇り」と言うものを、面倒なので捨てた者たち・・・

これからは、「子供」、「大人」の区別なく犯罪行為は、「法」を執行されなければならない。

「犯罪行為」を行っていた場合は、罪刑法定主義という刑罰は法律によって規定され、その法に従うとされている。

戦後、異常なる人権尊重と自由の「権利」ばかりにとらわれ、教育内容も権利に特化しすぎてきた。その為に、日本国憲法における国民の義務、12条人権の保持、人権の濫用の禁止、99条憲法尊重の義務、26条教育を受けさせる義務、27条勤労の義務、30条納税の義務などの自由に比べて面倒な「義務」はなおざりにされてこようとしている。

だから、犯罪行為をしても自分の権利を主張し、刑事処罰を受けることを人権侵害だと錯覚する傾向まで出て来ている。

99条にある日本国憲法の順守と言う義務があると言うことを、中学生用の教科書では強調しているものは少ない。日本国憲法の順守と言う事は他者の基本的人権のを尊重すると言うことであり、いじめは他者の基本的人権の侵害に当たり、かつ、行為によっては犯罪行為であるということを学ばせなくてはならない。

一時期あった「道徳」という教科を戦前の軍国主義的教育に繋がるとして嫌悪し異常なる排斥を行ってきた偏った妄想と思想を持った教育界での勢力は、日本国憲法の尊さと崇高さと、第98条にあるこの憲法は国の最高法規であってその条規に反する法律・命令・詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部はその効力を有しない。という事は、この憲法下にある国家では個人の意志や団体の意思による私的なる法は施行されることはないのである。と言う事を理解してはいない。

犯罪行為は「法」によって裁かれるということに信頼を置いていかなければならない。

即ち、未来の子供たちには日本国憲法を順守し、他者の基本的人権を侵害する行為は犯罪行為であると言うことをきちんと教えていくことが非常に大切である。

逆説的に、日本国憲法をしっかりと学んでいない妄想思想の教育者たちが間違った価値観からいじめを行っている加害者側の人権侵害を訴えたりするのであって、犯罪行為を行ったものを反古にするということと勘違いをしているものがいじめを助長している。

守るべきは犯罪行為に苦しんでいるいじめられている側の人権である。また加害者側となっている者が犯罪行為を行っている場合、法に従って処罰することは人権侵害ではない。


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2012年07月16日

子供の世界と言う聖域 U

「いじめとは、立場や力の弱い者に精神的、肉体的暴力を加え、人に、精神的、身体的苦痛を与えること。」とある。遊びでもおふざけでもなくけんかでもない。いじめと言うのは正当な人権侵害である。

人間世界で嫌な事が、すべてなくなればどんなにいいかと思う。しかし、人間は全知全能ではないから、毎日、多くの人々が多くの問題に直面している。

もし、普段の生活の中で大人同士が、街中で個人を集団で暴力していた場合、たいていは誰かしらが警察に通報するであろう。そのことによる、解決方法がおこなわれる。

それがもし、子供同士で同じ事が行われていた場合、たとえ暴力行為が行われていても、警察に通報する者はいない。

それは、けんかやふざけ、遊びなどととるからである。またそれが学校内で行われていて、その現場を教師が目撃したとしても、たいてい注意で終わってしまう。もしその時点で打撲などの負傷をしていても比較的そこで終わってしまう。しかし、それが大人同士であれば、傷害罪=他人の身体に障害を与える罪にとわれる。

問題は子供が加害者だった場合、解決したい気持ちはあっても、実際には、どのように対処してよいか分らないことである。

そのため、学校では「いじめ」は実際に起きていても、教師たちは「いじめ」と言う言葉に異常に反応する。それは、解決するためではなく、「いじめ」は発生させてはならないものだからである。それは現実に起きていても、教師たちはタブー=それを見たりそれに触れたりすることを禁止され、この禁止に違反すると自動的に災厄に見舞われるとされるもの。扱いをし、「いじめ」とは認定しようとはしない。と言う事は、誰も問題解決をしようとはしないと言うことになる。

大切なことは、「いじめ」を発生させないようにすること=不可能なこと、ではなく、発生している「いじめ」にどう対応するかである。「いじめ」を解決すると言う事は、「いじめ」による、加害者の精神的、肉体的暴力を止めさせ、被害者側が被っている精神的、身体的苦痛から被害者である生徒を救出すると言うことである。

勘違いの多くが「いじめ」と言う行為の深刻さの度合いを、被害者ではない第三者が評価することである。精神的、身体的苦痛と言うものは、受けている者が、その苦痛を強く感じ、「苦しい」と感じれば遊びであっても何であっても「いじめ」なのである。

だから「いじめ」自体はどこにでも存在する。

問題は、学校と言う場所は事実上、生徒以外は保護者などが自由に踏み込めない聖域となっており、教育現場では唯一の「大人」である教師だけが、接点をもっているだけである。その教師がもし「いじめ」を黙殺し「いじめ」をないことにしてしまえば、保護者、教育委員会などの「大人」社会との接点は断たれ、連携した「いじめ」に対する問題解決は一切行われないことになってしまう。

そうなれば、深刻ないじめにあい、生き地獄の渦中にいるような壮絶な思いをし、脱出方法が分からずたった一人誰にも言えず、苦しみを耐え続ける精神力が失われる苦しい日々を生き抜いている状態の子供を、救出してくれる人はあらわれないことになってしまう。

なぜ子供社会には、いまだかつて何度となく事実上の犯罪行為であるいじめと言う名による犠牲者がいながら、今に至ってもいじめは遊びや悪ふざけやけんかなどと言う対処がまかり通っているのだろうか。

もし、人はあまりにも酷い苦痛をを受け、その苦痛から解放されたいと願う時、救出方法が皆無だと思い絶望したとき、どのような行動をとるのか。

教師は、教育現場での「いじめ」を黙殺すると言う事は、子供の命を絶つ可能性がある事を、覚悟せよ。

子供たちがそのような行動をとることしか苦痛から逃れらない教育現場を、変えることは難しいが、何か対処方法を確立していくことは出来る。

耐えきれない苦痛に直面している子供たちを救いたいと心から思えない教育者たちは、教育者としての資格などない。
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2012年07月07日

子供の世界と言う聖域 T

生まれたての人間を、「人間」に成長させていくのは、教育か、それとも結局は個の本質の成長によるものなのか。

その成長過程の「子供」=未成年と言われる時期の教育を含む保護責任担う、「大人」と言われる側は、果たしてどれだけ、子供たちが作り上げている「子供たちの世界」の現実を真に理解できているのだろうか。

常に「大人」が「子供」を理解しようとする時、どうしても自分自身が「子供」だった頃を思い出しては、記憶と重ね合わせて理解しようとする・・・

しかし、その自分自身が「子供」だった頃の「子供の世界」と、今現在進行中の「子供の世界」とでは最大で数十年の開きがある。

と言う事は、もしかすると全く違ったものに変異しているかもしれない。いいや、ほぼ間違いなく変異しているだろう。

よく教科書で説かれている人の感情や子供の成長発達での情緒の形成などは、、長年の間、内容も変わってはおらず、不変的なように思い込みがちである。特に教師、カウンセラーなどが学ぶ心理学の教科書には「正常な状態での発達」の心理学を学ぶだけである。

そこにあるものもやはり、今現在進行中の「子供の世界」とはかけ離れてきているのかもしれない。

「大人」になると人は、過去の自分をさておいて「子供」に、子供らしくいてほしい、ましてや自分の中にあるイメージで子供らしいと思い込む。現実の「子供」の全てを受け入れようとはしない。教育とはそういうものだと思い込んでいるからだ。そして「子供」は理解出来ない「大人」と言うものとの、真実のコミュニケーションを止め、自分達の絶対領域を作る。

そしていずれ子供たちは、幼年期から幼稚園、学校と言った、自分ひとりで生きていかなければならない「子供社会」と言う場所に行くことになる。いろいろな意味で、「管理者」というものはその「子供社会」とは係わってはいるが、問題解決をしようとする時、その問題が、子供の成長過程に必要と思われる「社会性の発達」に必要な程度であれば、かえって、過保護からくる過干渉になり過ぎてはいけないが・・・

しかし、もしそれが、「大人の世界」の犯罪行為の域まで達していた場合は、「本人たちの問題解決能力を高めるための自主性に任せる」という教育理念を生かした問題解決方法とは全くの別扱いにしなくてはならない。

そのことが理解できていない、子供よりも賢いと過信している「似非教育者たち」によっての無能力のせいで、子供たちが絶対に行かなくてはいけない「学校」という場所で、もし子供が築き上げた「絶対王政」があった場合、そこでは、子供が王となっている恐怖政治が行われ、人権侵害、自己意思選択権剥奪、暴行、脅迫、恐喝、殺意なき殺人、すべての恐怖が存在する無法地帯となる。




(日本国憲法前文によると)
 日本国民は、恒久の平和を祈願し、人間相互の関係を支配する崇高な利を鵜を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公平と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免がれ、平和のうちに生存する権利を有する事を確認する。




全世界に視野を広げる前に、愛おしい子供たちの通う学校で繰り広げられている「専制と隷従」による人権侵害から、子供たちを救出する方法を真剣に考え出さねばならない。

加害者と思われた人の人権が守られていなかった頃から、この人権重視の日本国憲法を享受してから約60年、時代も変わり人権環境は整えられてきたが、えん罪の可能性の低い明白な犯罪行為まがいを犯しだしている者たちにまで、人権と言う名の絶対バリアを着せ続ければ、その者が誰も手が出せない「王」に変わり、新型の無法地帯が出来上がっていく。

それが、人々のために良かれと思って創りあげられた人権至上主義が使い方を誤れば、逆説的に民衆を苦しめる。

日本を動かしていると思われる、賢しこいと自惚れ、賢さの頂点を極めた自己を崇拝している、劣っている他者の意見に耳を貸さなくなって、事実上の進化を止めている知識人たちによる、そうした「大いなる勘違い」が、どんどんどんどん、国家の治安を悪くして恐怖社会に突入していく。

その中で、体力の弱い老人になるのは。こ・わ・い。

そして、未来の子供たちにはぜひ、心が痛くて、他人のために流す涙を持っている人になって欲しいと願うばかりである。
posted by WHO IS I ? at 13:16| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする