2010年10月27日

うそ

 アメリカのドラマ『ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間』を観た。題名からすると恋愛もののサスペンスかと思ったが、難事件解決ものだった。

 ネタばれ注意・・・

 嘘を見抜く研究で天才的な科学者カル・ライトマン博士がライトマン・グループを設立し、優秀な心理学者たちを集め、FBIや国防総省の依頼など様々な難事件を解決していくと言うもの・・・
 
 仕事を解決するために、関係者の表情、しぐさ、話し方などから次々とその者たちが言っている事の真偽を判断していく。

 つまり、嘘を見抜くという仕事らしい。

 普通一般市民は、嘘と言うとその人が言った内容と状況から漠然と嘘くさい程度に判断し、その人が嘘をつき続ける限り、悔しいが真偽は大抵謎のままだ。

 それを博士の売り文句「わずか0.2秒の“微表情”を科学的発見により分析して嘘を見抜く天才」とある。

 嘘を科学的に分析して立証して、確信に近づける。変な意味で叶えたい願望の一種だが・・・

 専門的な知識から、超能力でもない限り普通の人間は心の中は決して他人には分からない事になっている嘘を確実に当てる事など可能なのだろうか。

 現代の研究の水準はどの分野でも、凡人には想像できないほど進化していると言う噂は絶えないが、嘘を見破るテクニックも想像の域を超えているのだろう。

 しかしただ事件を解決しても、裁判になるとどうか・・・と、勝手におっせかい的に心配になったが。

 罪に問うには証拠が重要で、証拠がなくては法では裁けないと言う現実にぶち当たる。そのため証拠に囚われるあまり、今回も大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件のような事が起き、深みにはまる結果、真実を見抜く目が曇ってしまうだろうか。

 そして博士たちは、人が嘘をつく時の様子、特に顔にある多数の表情筋の微妙な動きやしぐさなどから次々と判断していく。

尖閣諸島問題での船長の処分保留で釈放する那覇地検の判断において、お国が関与しているかいなかの、国会での官房長官の発言時の様子をカル・ライトマン博士に分析してもらいたかったが。

 簡単に分かりそうなシーンは、素人でも使えそうだ・・・と、観ている側人々がみんなそう思うと。

 このドラマを観過ぎて、お互い相手と話す時に、相手もこのドラマを観ていると深読みをしすぎて、嘘と疑われたくないために、ロボットのような反応に徹してしまい、かえって疑われてしまい変な事になりそうで、ストレス要因になりかねないが・・・

 まあ、ちょっとした嘘ならという気もするが、このご時勢そうもいかないと言う事なのかもしれない。
posted by WHO IS I ? at 00:25| Comment(4) | ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月09日

しつけという虐待

 子供の育児責任者の立場を誤訳して、子供を自分の所有「物」と思っている者たちが増えている。

 子供にとって家庭教育は確かに必要だが、問題は親たちが好き勝手「自己流」で行いかつ家庭内の事なので他者の目に触れる事も無く、「正常」かどうか考える尺度すらないと言う状態になっていることだ。

 そして大きい事件となって、表面化する頃にはその間違いは深刻化してしまっている。

 挙句の果てには、保護者対子供と言う関係が事実上の加害者対被害者の状態になっているにもかかわらず、これが他人の子供だった場合は躊躇無く加害者として処罰するのだが、自分の養育している子供となると、社会全体も不可思議な「しつけ」という言い訳を受け入れてしまう。

 強いては、社会も世論も法曹界ですら微妙な躊躇を加えようとしてしまう。

 じゃあ、誰が事実上の被害者である子供を加害者に変異してしまっている「親」と名乗る「犯罪者」と化した化け物の「住みか」から救出するのか。

 現状は、映画「羊たちの沈黙」に出てくるような、おぞましい犯罪者と同じ位の「親」と言い張る「犯罪者」にですら「親の愛」の存在を言い訳に、子供を渡してしまっている。他人だった場合、近づかせないはずなのに。

 恐ろしいのは、もうすでに保護者から加害者になっているにもかかわらず自分はひたすらに明治31(1898)年に施行された民法の822条に親権の一つとして規定された、親の子供への「懲戒権」を楯に取り正当化までする親(親の前に「人間失格者」だが)がいるという。

 懲戒とは、言葉としては懲らしめ、戒めだが、中身としてはしつけを意味してきた。しつけの方法として体罰が社会的に容認され、しばしばエスカレートして虐待となる中、懲戒権は虐待する親たちに自身の行為を正当化する口実として使われてきた」と言いうことだ。

 驚いた事に、言い張られた方も、明白な子供への傷害・殺傷行為によるものと思える痕跡=証拠があるのに、この民法の根拠を場合によっては受け入れてしまうらしい。

 日本国憲法 第98条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

 日本国憲法 第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。

 憲法の基本的人権に年齢制限など無く、0歳からの適用だ。 
 
 もし子供たちへの人権侵害があっても構わないなどという、法の解釈が存在しているのだとしたら、確実に憲法に違反している。そのような慣例が法を行使するもの中の精神にすら宿っているとしたら話にならない。

 不思議でしょうがないのが、親子と言う概念がなければ、素直に子供という「人間」の心と体を殺傷しようとした加害者なのに「しつけ」のためという何の根拠もない言い訳だけは取り入れられようとしてしまう事だ。

 親は「しつけ」と勝手に呼んでいる事実上の「暴力」を、しつけは親権に基づく義務であるという歴史的に植えつけられた思想が、下手をすると「正しい行為」の様に幻覚をさせ、一瞬にして「遣り過ぎただけのしつけ行為」と錯覚させてしまう。だから、命の危険などまでは無いと、子供を親元に返してしまうのである。

 男女平等が定着しつつ中、それでも「聖母」思想、強いてはそうであって欲しいという願望が、親は子供を愛しているているものと決め付け、事実上の「犯罪行為」に至ってしまっているのにもかかわらず動機は愛情に起因していると思い込んでしまう。

 それが人々の判断を狂わしてしまう。

 しかし時代が進むにつれ人々の価値観、モラル感、思考は変異し続け、「母性愛」もその一つとなってきている。人の心の変異に教育や社会でのモラル意識などはもう機能しなくなってきている。

 もう親の心の中には、殺意に近い憎悪・嫌悪感しかなくても、未成熟逃避型社会の日本国では人の心のダークサイドに正面から触れたがらない傾向が強くそのため対処が遅れる。
 
 しかし法治国家では、たとえ親であっても子供の人権を侵害してはならない。民法は憲法に反する事は認められない。面白いのが、明治31(1898)年に施行された民法の822条が歴然と用いられていて、その時はまだ大日本帝国憲法下の時代で、「正常」な人権の概念が人々にあったかすら不明だ。

 古すぎて現憲法、人々の価値基準と別物となってしまっている法律を使い続ける事自体、封建社会はもうとっくに終わっているにもかかわらず、事なかれ隠蔽体質、怠惰、この国はまだ乱れていないと思いたい意味不明なナショナリズムがDNAに組み込まれてしまっているらしい。

 時代は進み人間の精神構造も変異し続け、特に密室性の高い家族問題のケースは家族形態などの複雑化で子供にとって「家庭」が安全な場かどうかすらあやぶまれてきている。
 
 某国では、保護者の子供に対する「あらゆう暴力行為」は許されていない、場合によっては「養育能力」まで問われる。

 日本国憲法 第14条 すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分、又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 動機がたとえ「愛」だったとしても、親が子供に「犯罪行為」をした場合、法の裁きは平等にされなくてはならない。
posted by WHO IS I ? at 07:28| Comment(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

偉人

 今年のノーベル化学賞に根岸英一さん(米パデュー大学特別教授)(75)と鈴木章さん(北海道大学名誉教授)(80)が決まった。

 2人とも、パデュー大の故ハーバート・ブラウン博士の下で学んだ同窓生で、 そして受賞対象となった技術について特許を取得しなかったとのこと・・・
 
 経済的なメリットは逃したかもしれないが、特許を取らなかったことで技術は世界へ広く普及し、その事で研究者最高の栄誉への道を開く一因にもなったと言われている・・・
 
 根岸氏は「特許を取得しなければ、我々の成果を誰でも気軽に使えるからと考え、半ば意識的にした」と述べた。

 もしかしたら、アメリカ映画によく出てくる財団などを創設できたのかも知れず、自分だったら失ってしまった儲けを思い返しては逆説的な卑屈精神の持ち主になっていたのかもしれないが、さすが潔くかっこよ過ぎる。

 まだ日本人にも真の偉人が残っていたのだと、妙な意味で感動した。古き善き日本人たちが持っていた「大らかさと潔さ」が伝わってきて、現代人の変異を彼らによって認識させられたような気がした。

 最近蔓延している隣の芝生は青い的な妙な自己カウントによる自虐精神により自分で自分の人間的視野をどんどん狭めていき、魂そのものがブラックホール並みに内に向かってるのを感じている。

 昔の日本教育の傾向として、よく子供の頃「少年世大志を抱け」の如く「夢」を持つ事が推奨されていた・・・

 しかし純粋すぎるがゆえに、夢の行き方を間違えると現実逃避になりかねないので最近ではきっと中止になっているのだろうが。

 これだけネット社会になり情報が否が応でも入ってきてしまうと、自称偉人やマインドコントールを加えて偉人になった者ではない真の偉人になることは不可能に近い。

 ネット社会の功罪の影響で無欲の境地で居続けることは難しい・・・

 現代人なら「特許を取ると、儲けは何ぼになりますか。」と真っ先に利益優先で、貢献や偉業などの見えないものには価値を抱く心などはとっくに無くなってしまっている。「損」や「負け」になっていないかばかりに気を取られ、そんな狭い境地ではチャレンジ精神などは真逆なものとなっていくだろう。そしてその精神は次の世代に受け継がれていく・・・

 彼らの世代にはあった何かが、彼らを真の偉人にしたのだろうか。
posted by WHO IS I ? at 01:28| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする