と某総理の時に決めたそうで、きっと日本国憲法の社会権や生存権が“保障されている”事を知らなかったのだろう・・・か。
憲法25条に“国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならい”ともある。
日本国最高法規である日本国憲法をきちんと読んだ事すらないのかもしれない。自分の一生の内に、社会保障の世話になる事など完全に無いと踏んでいる強者の考えなのだろう。
そう言う強者から見れば“社会保障費”は邪魔なだけなのだ・・・
“自己責任”という思考を国民に植え付け、助ける事はまるで悪と言わんばかりに、助けないことによる結果に対する今まで責任者たちが無責任と言う事に対して抱いていた罪悪感という歯止めを取り払った。
言い換えれば、“ネグレクト(=本来英語で「無視すること」を意味するが、日本では主に保護者などが子供や高齢者・病人などに対して、必要な世話や配慮を怠ることを指し虐待のひとつ)社会”を築き上げ今でも自分の行った政治の闇に気付くだけの能力すら無いのかもしれない。
“甘やかし”と“世話”の意味を巧妙にすり替えて社会保障は国家の甘やかしと思わせる事で責任放棄の礎とした。
総理が憲法の理念に叛逆し、暗に基本的人権の冒涜を許可すると指し示した・・・とも言える。
自己努力での生存の限界を切り、生存権ですら危うくなった者の生存権を保障するのはいったいどこなのだろうか。
教科書にこうある・・・社会権とは人々が人間らしい生活を送るために生活の基礎を“保障する”権利とある。
しかし確かに保障する側が書いていない。
“俺たちの事を無視してここまで国民を苦しめるとは・・・許せん”と国民がこう言っても、
私たちは普通選挙により“選ばれし者”であり国民の民意の反映であると言うところだろう。
日本国では国民が選挙で選んだ代表者(議員)を通じて政治に参加する間接民主主義がとられていて、国会が国権の最高機関として政治が行われているとある。
しかしここ近年・・・“庶民”というものを基礎知識として勉強しないと理解できない国の代表者が増えている。
だから彼らは国民の生存を保障している“社会保障費”を無駄としか思えないのだろう。